久々の投稿(昨年10月退院してから、少し元気を取り戻して)
昨年7月、よく覚えていない(意識をなくしたのかもしれない)のだが、救急車で緊急入院した。1~2ヶ月は救急病棟で、点滴や検査用の様々なチューブをつけられ、検査漬けの毎日を過ごし、命をつなぐ経験をした。死ぬことを2度覚悟したことを記憶している。
今になって思えば、おそらく、ベッドに縛られ寝たきりにされていた苦痛や不安、さらに強い鎮静薬等、様々の薬の作用により、現実とは少し離れた妄想の域をさまよっていたのかもしれない。
一般病棟に移ってからも、点滴と鼻からチューブによる栄養補給、毎日の血液等検査等で、寝ていても、息苦しさ、むかつき、気分の悪い等の苦痛の日々が続くことに変わりなかった。医師より遺漏(腹部に穴をあけて直接胃に流動食を注入できる)手術をすすめられ、その結果、食事?時の苦痛はやや改善されたが、胸のむかつきは酷く、(今の体調になっとことから思えば)この時の主治医の処方(注入食の選択、他は水分補給としてのポカリスウェット)は適切なものでなかったと思っている。体重も45kまで減り、脱力感は常で、自力で動くことは殆ど出来なかった。
痰詰まり、息苦しさ、むかつき、用便等でナースコールで看護婦を呼ぶことになるが、夜間、人手不足、時間帯により、期待通りに来てくれることは少なかった。
一般病棟は狭く、空調も快適とは程遠く、室の移動を要望していた。入院してから2ヶ月後くらいして、個室に移れた。テレビは地上波番組だけでBSは見られず、1日のほとんどの時間をベッドの上で何もすることなく、苦痛に耐えて過ごす日々だった。
毎日、10時前には周平兄が、1時からは悦子が来てくれ、付き添ってくれる時間は苦痛が和らいだ。せめて、一度は退院してパソコンでインターネット、競馬投票すること、胡蝶蘭・シンビジュームの咲くのを見るのをはかない夢と思っていた。
入院が3ヶ月近く続いて、ぐらついていた歯を抜歯したこと等あったが、特に必要な治療はなくなり、退院後についての話題がのぼることとなった。かねてより、在宅(グローバル木幡)を要望していた。看護婦(介護士?)には、在宅療養は無理だろうからと、転院や介護施設の選択をすすめる者も少なくなかった。
昨年10月24日に退院と決まった。退院時は、たくさんの人(病院の人、在宅訪問施設の人、医療機器関係の人等)に付き添われ、救急車で帰ってきた。ブリッジ(在宅訪問施設)の所長さんが、「無事に正月を迎えられることが目標」と言われたことを記憶している。
体調は日々よくなった。要因としては、悦子のつきっきりの介護、快適な空調、病院と違って身動きができる介護ベッド、期待以上の訪問介護士、寺井さんのリハビリ、BSが観れて退屈な時間がなくなったこと、入院時の主治医の処方のものより体にあっていそうな注入食、間食に豆乳や栄養ドリンクの注入につとめたこと等...?
なんとかパソコンのキーボードも打てるようになり、インターネット、競馬投票もでき、入院時と比べれば快適な生活をおくれるようになった。
2週間に1回、大石先生がきて喉の気管カニューレ交換する日が来る。この日は朝から憂鬱で、交換施術の伴う痛みはかなりひどく、出血もしばらく続き、痰の吸引も数回必要となり、2時間ほどは安静にして、痛みが消えるのを待つこととなる。
訪問入浴をすすめられ、試した。その1回目、入浴後に熱(38°)を出し、大石先生に緊急往診を依頼、注射を一本打ってもらって、やっと熱が下がった。入浴自体は、時間の制約上、せわしなく快適とは言えないが、一応は体をキレイにしてもらえた気がする。月1回くらいは最低限必要と思い、2回目以降、第3木曜を定期日として続けることになっている。
今年になって、ベッドで座ってパソコンをさわっている時間が日増しに増え、ベッドの横にすわること(端座位というらしい)・車椅子にすわることも疲労感なくできるようになった。痰づまりの間隔も徐々に長くなって、用便時のオムツ替えを除けば、日々の生活がそれほど苦痛でなくなった。
2月26日、遺漏交換(半年毎に必要)の為、半年ぶりに宇治病院へ行くことになった。退院後、外に出たのもこの日が最初で不安も少なくなかったが、介護タクシーでの往復・手術も意外にすんなり無事に終わった。
3月になって、リハビリで歩行(介助付きで数メートル)できるようになった。14日で退院5ヶ月となる。

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